すべての展示室にこの機械を!
プラザノースの展示室に入ると、手前の壁と奥の壁と等距離のところに駆動する本体があり、そこから左右に分かれた柄が両方の壁に届くまで伸びており、回転するたびに柄の先に取り付けられた鉄線3本が壁に触れて擦り痕を残していく。その横にも同タイプの中型機が2台。それらは縦回転し、天井と床に擦り痕を付ける。さらに、室外の壁嵌め込みケース5面にもそれぞれ小型機が収まっている。ケースのサイズはまちまちだが、どれも高さ1:幅1なので、縦回転する機械は両壁、天井、床の4面を擦るのである。
これがタムラサトルの新作の展示である。彼の新しい展開に目を見張りつつも、なぜ同タイプの機械だけでまとめたのかと少し引っかかった。彼にはなんらかの理由があったのだろう。
その答えを得るのは後に延ばし、私が作品の前で思い出したことからはじめよう。それは、赤瀬川原平たちが街中で見つけた《植物ワイパー》(1984年)、つまり、蔓草が長年風に揺られて壁に描き刻印した同心円状の摺れ痕である。彼らが街中で見つけたこのような物件は、芸術と同様に無用の長物であるゆえに《超芸術トマソン》と総称された。《植物ワイパー》が想起されたのは、擦れが作品になる点(ただし、タムラの新作の痕跡は横長の線でしかなく、壁にシートが貼られているので、痕跡は容易に剥がされる)に加え、無用の長物とみなす点である。
無用の長物に少々とげを感じるなら、芸術は現実の社会のしがらみから距離を置く、括弧にくくられた世界として築き上げられてきたと言い直してもよい。だからこそ、自足的に美や真が追究され、逆に、しがらみがないゆえ、社会批判も可能である。《超芸術トマソン》は、こうした保護された世界にはないので、様々な芸術的な仕掛けが必要であった。そうしなければ、その概念は霧散しただろう。一方、人の目的に応じて有益な作業を行うという機械の本質からは逸脱したナンセンス・マシーンの類がこれまで数多く作られおり、それらの一部は幸いなことに、芸術の世界に組み込まれてきた。タムラの機械は、この系譜に属する。
タムラが面白いのは、上述した美的な質や批判的面を必ずしも前面には出さないことにある。作者も述べるように、あくまでも無意味な存在である(ただし、無意味は必ずしも一義的ではなく、可笑しみなど、いくつか含意もある)。タムラの機械は無益かつ無意味、無益を無意味のひとつとみなせば、二重に無意味だといえる。
新作は、回転運動をする点で、これまでのいくつもの作品と共通する。ただ、ワニの形を回転させる《スピンクロコダイル》(1994年~)は、動物本来の動きと機械のそれとのズレから生じる可笑しさがあったし、また、《18の白熱灯のための接点》(2007年)など、金属棒が回転することで電気のon・offが起こり、光が点滅する機械も、スパークの見せ場があった。一方、新作、とくに大型機はそうした魅力にやや乏しい。長い柄が空間を大きく占有するとはいえ、鉄線が壁に触れてしなる緊張感と、それから離れてぶらぶらする弛緩した動きをゆっくりと繰り返すだけである。しかし、その動きは凝視に耐えうる。もしこれが静止した物体なら難しいだろう。タムラは、ものの「存在」ではなく、動く「現象」を見せるのであり、現象だからこそ長時間の凝視を可能にするのである。新作は円運動の意義をあらわにする。
今回の機械は、展示室に関わるのだから、空間芸術の範疇に入れてもよいが、それにふさわしい空間の質の変容をほとんどもたらさない。むしろ、展覧会名どおり、壁から壁までの長さを明示するだけである。この点、彼の《Weight Sculpture》シリーズ(2003年~)や《100㎏ Man》(2004年)に近い。それらにおいては、重量計に載った置物や作者自身は、ユニークな方法で、切りのいい数値になるように重さを調整するのである。感性に応じた質ではなく、誰にでも明瞭な数値とした点で新作も同様である。
だが、新作は、これまで自立自存していたタムラの作品とは違って、展示室に関わることは重要である。展示室の両壁や天上から床までの即物的な長さを扱ったからこそ、あらゆる展示室に適用できる汎用機械を作り上げたのだ。タムラは、今回、一般的な100Vのモーターにこだわった。長さを調整すれば、いかなる展示室でも、少なくとも2面で接することが可能である。冒頭で触れた、このタイプの機械だけを展示した理由が、ここにおいて理解される。展示ケースや展示室で様々なパターンを見せ、その汎用性を明示するためだったのだ。
極端をいえば、世界のすべての展示室で一斉にこの機械が回転し続けることもありえよう(タムラが、個々の機械のスピードを細心の注意を払って調整していることなどはここで措く)。すべての展示室でこの機械が回転するということは、この機械が回転しうるという規定をすべての展示室が受け入れるということであり、このように規定された展示室に置かれる美術品というものは一体何なのだろう。むろん、この美術品の中にはタムラの旧作も入る。このように連想していくだけで、美術に対して少しあらたな見方が生まれるかもしれない。
おそらく、無意味なものがそのまま保たれることは難しい。意味を壊し、無意味を得ても、その破壊すら意味となることも。無意味は意味に囲繞されているのだ(逆に、意味は無意味に囲繞されている)。無意味の穴を意味が絶えず埋めようとする。無意味の無意味性が強ければ強いほど、そこを補充しようとする力は働くだろう。たとえ補充できなくとも、上の連想のように、その周囲に意味を集めるだろう。今回のタムラサトルの新作では、その無意味がますます発揮され、無意味そのものの強度と意味がよりあらわになったのではないか。
出原 均(兵庫県立美術館学芸員)