意味性の破壊 深瀬鋭一郎・尾野田純衣
タムラサトルの作品は笑える。笑えるものだが、危険である。親しみ易いモチーフの裏に、キネティック・アートとしての物理的危険性や、ビデオに映し出されるパフォーマンスの暴力性、モチーフを無為に空回りさせ意味性を消し去ろうとする無意味主義─いわば概念的テロリズム─が潜んでいる。その笑いは、作品が面白くて笑う、ユニークなので笑うということに止まらず、考えのやり場がないので笑うしかないといった、観る者の思考活動を無にするような性格を持つ。
タムラの立体作品は、頭や胴体が切られていたり、穴があけられていたりする精巧な熊や鰐の立像が、簡易かつローテクな機械仕掛けで動くものである。モチーフに対して等身大以上に造られた立像が旋回し、あるいはレール上を動いていく様は、そのスケールの大きさで観る者を圧倒する。また、動きの単純とローテクさで笑わせる。鑑賞者は作品の前を離れた後、「なぜあのような動きをするのか」と自問自答し、作品の意味を探ろうとする。
モータ等の機械を用いていることに着目して、作品が「機械化の進んだ現代社会に対する批判を意味している」と捉えることも可能である。ダダイズムや反芸術の流れに擬えて、「美術史や、芸術のパラダイムにおける意味性への反逆を意図している」と批評することも可能である。
もっとも、タムラにはそのようなアンチテーゼを提起する意図はない。タムラの作品においては、モータ等のメカはあくまで作品を作品として成立させるための一機能に過ぎない。タムラは常に自分の作品について、作品はあくまで「作品」であり、特定の意味を有するものではないと主張している。一見してそれとわかる具体的なモチーフを取り扱いながら、観る者に思考停止を求めようとする。
こうした作品は、意味性の破壊という、いわば倒立したコンセプチュアリズムもまた成立し得るという事実─コンセプト─を、将来へ向けて提示している点で重要と考えられる。それは「イズムの消去」を標榜しつつも、過剰と言えるまでの概念性に満たされた今日の同時代美術に対峙する、ひとつのアンチテーゼとして存在していることに他ならない。そのようなコンセプトの下で製作された作品を鑑賞するとき、鑑賞者は「美術作品とは作者の具体的なメッセージや情動を具現化したもの」という、従来の見方を修正せざるを得なくなる。
上記の特質は、タムラのパフォーマンス・ビデオ作品にも顕著にみられる。鑑賞し思考する頭脳回路を無効にすることを強制しつつ存在するビデオ作品は、鑑賞者に対して相当に過酷な受容を迫るものとならざるを得ないだろう。無意味さを追求した作品を制作するためには、作家は制作意図を探ろうとする鑑賞者の深読みを拒み、思考停止の状態を求めなければならないからである。
例えば、タムラとその友人たちが、洗濯機をピッチングマシンで破壊し、最終的には燃やしてしまう一部始終を描いた映像作品「最終的に、洗濯機が燃える」(2000)では、洗濯機を破壊するパフォーマンスをギャラリー内で行う代わりに、ビデオ作品として目前に提示する。
すると、むき出しの過激さと危険性が映像によって緩和される分、鑑賞者にとっては、「なぜこのようなことを?」という謎がたち現れる。その謎を解き明かそうとすることにより、考えれば考えるほど意味を探れなくなる困惑状態が生じる。その結果、ビデオ作品内で起こっている破壊活動がどんなに判り易いものであっても、考えれば考えるほど作品の無意味さが際立ってくる。
我々はこの矛盾の前で、ひたすら自問自答するしかない。そしてこの状態こそ、タムラが目指すものであるならば、おそらく彼の術中にまんまと引っかかったことになるのだろう。そして、そうなってしまった以上、筆者を含めてタムラの作品を見るものは、ただ笑いながら彼の作品と向かい合うことになるのである。
「ALL VIDEO WORKS」展 解説より