
タムラサトル展
Column『アートウォーク通信vol.6』
2002年8月20日
なにものも入り込む余地のないものつくっていくわけです/タムラサトル
僕は、作品を制作するとき、その作品が美的解決を越えてある目標や主張を設定し、任意・偶然いずれの場合にしても、何かのための手段になっていないかどうか熟慮します。つまり、作品そのものが目的なのです。むしろ、その目標や主張を持たせないために、モチーフ・素材が持つであろう意味・背景を積極的に奪っていきます。それは、脈絡のない組み合せ・動き、その設定・見せ方だったりします。そうやって、なにものも入り込む余地のないものつくっていくわけです。
1999年以前は、動物と動きの組み合せ[例:スピンクロコダイル/1994年制作/千年の扉(栃木県立美術館)他出展]のみがそれらを奪う唯一の手段であり、その方法に固執していました。ところが、今年3月のGALLERY IN THE BLUEの個展でも発表した[プラスチックモデルは粉々にくだける/2000年制作/ムービーフェスタ vol.1(studio BIG ART)他出展]を契機に、動物と動きの組み合せ以外でもモチーフ・素材が持つであろう意味・背景を奪うことができることに気付きました。具体的にそれは、迷いのないスイングであり瞬間に粉々に飛び散るパーツなのです。これらは、破壊という行為やそのプラモデルに張り付くもの(意味・背景)を痛快に剥ぎ取っているように思えたのです。
初めて使用するメディア・素材によって、その作品の明解な方法論は見い出されたわけです。それ以来、意識的に作品のシリーズ化は避け、今まで使った事のないメディア・素材・モチーフを試すようにしています。また立ち戻るということはありえますが、これは戦略というよりは、作家・作品の性質によるものでしょう。常に、なにものも入り込む余地のないものそこに立ち尽くすようなものを求めて、彷徨うのです。
今後のタムラの新作の迷走ぶりに御期待ください。
ドラえもんをつくる(男の子編)
-ドラえもんの過去は未来にやってくる-/那須孝幸(芸術論)
『美術手帖』2002年 8月号
特集 THE ドラえもん展開催記念
ドラえもんをつくる(男の子編)
-ドラえもんの過去は未来にやってくる-/那須孝幸(芸術論)
少なくとも「ドラえもんごっこ」をした記憶がない。サザエさんごっこをしないのと一緒なのか、どう一緒なのか、それはさておき、『水戸黄門』と『ドラえもん』は、ちょっと似ている。それは、しずかちゃんと由美かおる演じるお娟さん(お銀さん)が、どちらも入浴シーンが魅力(?)なことにほとんどすべてを起因しているともいえるが、印籠と4次元ポケットの中身(ひみつ道具)の登場の仕方とか、絶対的な効力とか、なんとなく似ている。さしずめジャイアンはかわいそうに悪代官役か。それもさておき、以前、映画『プライベート・ライアン』 を観た友だちが感激して電話をかけてきた。ボクはその映画名が『ドラえもんとジャイン』に聞こえてしまい、もう、ストーリーはドラとジャイアンの展開にしか想像できなくなってしまった。二人の会話は、水戸黄門と悪代官との会話以上に気になる 。ほらこのように、ファンを自称しなくとも、意識下にドラえもん世界は拡がっている。
『コロコロコミック』は創刊当初から愛読していた。方倉陽二が描く『ドラえもん百科』 掲載の、ドラの内部メカニックをみて、ショックを受けた記憶がある(いま読み返すと最高)。おそらく、1969年の連載開始以来長年続くドラえもん人気の源は、ドラがロボットだから、にはないだろう。同じく未来からやってきた『ターミネーター』 とは違い、そのSF性は、ドラのキャラ設定より4次元ポケットから引き出されるひみつ道具の非日常性に多くを負っている。『ドラえもんをつくる』といえば、初の長編映画『のび太の恐竜』が封切られた1980年にバンダイから、ドラえもんやタイムマシンのプラモが発売されている。えらくギミックに凝ったつくりで魅力的だったが、その後、各模型誌の特集や投稿コーナーでラムちゃんのフィギュアが隆盛極めるなか、ドラえもんシリーズはあまり展開されなかった気がする。タイムマシンに乗っている面々やしずかちゃんの入浴ジオラマを見たような記憶がある程度。当時でもドラグッズは海賊版も含めて世界中に溢れかえっていたが、数多くキット化された歴代ゴジラ流にいけば、連載開始当初のモッソリ姿のガレージキットとか(ゴジラでいえば初代ゴジラか)、方倉陽二バージョンのキットとか(ゴジラでいえば米国版ゴジラか)、あってもいい。あってもいいが、いま、わが家には電報でもらったドラのぬいぐるみがいくつかあってそれを眺めてみても、確かに、それで十分な気がする。完成度が高いということより、それですでにもう、ドラえもんな気がする。そんな存在なのだ。
時期が重なるガンプラブームのときには、模型改造のための設定資料が欲しくて、『ホビージャパン』や『OUT』を友達と読み回した。空想を自分なりにアレンジして実現させる快感があったと思う。塗装を違えるだけでも、そこには自分だけのストーリーが誕生していた。一方、タムラサトルのビデオ作品に[プラスチックモデルは粉々にくだける] というのがあるが、これがドラだったら、発狂するひともさぞかし多いだろう。正直、ガンダム(タムラの作品ではグフやドム)が破壊されることでも、かなり痛い痛い(タムラはその反応を拒否する★3)。
ドラえもんは4次元ポケットとその中身を含めて、ひとつのロボットだ、という解釈がある。ガンプラブームでいえば、ガンダム本体のみならず「武器セット」も異常に売れた、とか、ジオング を皆でこぞって「足付きジオング」に改造したがったとか、そういう需要なのか(?)ドラえもんの模型を「完成」させるのは、確かに難しい難しい(完全変形のゲッターロボはガレージキットで実現しているのに!)。
H.G.ウェルズが小説『タイムマシン』を刊行し、カレル.チャペックが「ロボット」の語を発してから、ずいぶん経った。人類の宇宙飛行が成功し、大阪万博を終え、公害問題に直面し、ロックが学校で禁止され、老若男女を問わず愛され続けたロボットは、アトムよりもドラえもんだった。今日、日韓共催FIFA W杯閉幕、ブラジルでは1992年よりTV『ドラえもん』放映開始、『ドラえもんズ』でブラジルといえばドラリーニョ。「すこし(S)ふしぎ(F)」な世界への欲求は、アート・シーンにも数多く出現している。ヤノベケンジの作品は、制作プロセスをみるとフルスクラッチのような、かつてプラモで味わったワクワクに近い共感を感じさせる一方、たとえば八谷和彦の[視聴覚交換マシン]はひみつ道具にみえるし、1999年以降のエアボード・プロジェクト のように、ホバーボードを実現させた企画も壮大だ。
2008年にはタイムマシンが発明される 。過去の様式から現在を措定するのではなく未来形から現在を形づくろうと、未来派以降多くの実験がなされてきたが、本意をくみ取れば、そうした歴史を振り返って現在の状況を判定することは本末転倒だろう。環境問題や人口増加/減少問題の本質も、未来の視点から求められた現在にある。宮川淳の言葉をもじっていえば、設定上も効果も、ドラえもんというキャラクターは、未来という非日常の地平から「日常性への下降」により現れた姿だった。未来に生まれたドラえもんの影響力は、未来世界にではなく、現代に及んだ。いま、ドラえもんは日常に氾濫している。世代も越えている。ひみつ道具には、本来、未来においてどういう目的で制作されたのかわからない道具もある。一方、これから産まれるドラえもんは、おそらく馴染みの姿をしないだろう。どんな時間軸を歩むのだろうか。
2002年6月30日
(なすたかゆき [芸術論])
★3:「このバットで叩き壊されるプラモデルはバットで叩き壊されるプラモデルでしかないのです。叩き壊されることに そのプラモデルに後から様々な意味が張り付きそうですが迷いのないスイングが、瞬間に飛び散るパーツがそれらを許しません」(タムラサトル)


