創造への小径/タムラサトル
『すずかけの庭 栃木県県立美術館友の会会報』2001年10月15日
<抜粋>
「笑わせるものは、知られていない(未知)というだけでなく、知りえぬもの(不可知)だと考えてみましょう。
ここになお検討すべきひとつの可能性があるのです。笑わせるものとは単純に知りえぬものなのかもしれない。
いいかえれば、笑わせるものが知られていないというのは、たまたまそうなのではなく、笑わせるものの本質的な性質なのかもしれない、と。私たちが笑うのは、ただ情報や検討が不十分なために私たちが知るにいたらないといった性質のもつ何らかの理由のためではなく、知らないものが笑いを惹き起こすからこそ笑うのです。……私たちの内にもまた世界の内にも、何かおのずから顕われるもの、認識によっては与えられることのなかったもの、ただ認識によっては到達できないようなかたちでのみ位置を占めている、そんなものがある。私たちが笑うのは、まさにそのようなもののためなのだと思われます。」[ジュルジュ・バタイユ無神学大全、第五巻]
人間の意識が、未知のもの(まだ知られていないけれど、認識のこのままの延長上で、知られるものとなるはずのもの)ではなく、知りえないもの(このままの認識をいくら拡大しても、知られるものとはならないもの)に触れ、それが意識のなかに侵入をはたすとき、人間は笑うのだ、とバタイユはかんがえています。結果的に笑うかどうかは別として、“知りえないもの”に僕はとても興味があります。そして、その“知りえないもの”とは、多分に“狂気性”をはらんでいるように思うのです。
作品[スピンクロコダイル]に関して言えば、ワニの形や高速回転していることには、意味はありません。高速回転しているウレタンのワニがそこにあることにのみ存在価値があるのです。それは例えば信号の青は“進め”ではなく、青色の光(厳密に言えば緑)でしかないというものの見方です。要は予め用意されている意味・記号に疑問を抱いてしまっているのです。これが行き着くと本当に“狂って”しまうわけですね。
まあ、こんなこと書いてるうちはまだ大丈夫でしょうけど。